こまにまにこ’s blog

夫と子どもと世間をみていて感じること→そして自分の見直し+必要最低限な暮らしを目指して。

若い と 若々しさ

40歳代も中盤になってくると、心情に変化が…。

 

30歳代では「若いね」と実年齢より若く見られると嬉しく感じていた。

…が、現在43歳。

 

30歳代に見えると言われ、一瞬喜んでしまうが、

思い返すとそれって…「アホっぽいのでは!?」と、

自分が纏っているオーラに疑問が湧いてきた。

 

歳を重ねると、時間の経過と共に何かしら経験を積んでくる。

その分、人としての奥行きや深さが膨らんでいく。

 

老けていくことに抵抗がないわけではないが、

単純に”若い”と言われるとなんか違うなあと感じる。

 

”若々しい”という表現が良さそうだ。

 

実際のところ、実年齢より若いと言ってくださる方は、ご年配の方々。

それはそうでしょう、一回りも二回りも年齢が違うのだから、その方々から見れば若いよね。

 

でもその方々からみて若く見えるということは、やっぱり幼く映っているのだろう。

 

昭和時代の若者たちは、今の若者よりもしっかりした顔つきのように思う。

なので、現代に当時の若者がいたとすれば、実年齢よりも上に見えていた可能性がある。

 

ということは、やはり現代人の顔つきが昭和時代とは違って、幼く見えるのではないだろうか。良し悪しは別として。

 

それにしても若々しさはいつでもあった方が良いように思う。

頭の柔軟さ と 体の柔軟さ。

心においては、経験を積んだ今の方が柔軟である。

 

若々しい思考力があれば自然と身体にも若々しさが滲み出てくる。

言わば姿勢。

姿勢が悪い若者は実年齢よりも老いて見えるし、

姿勢がビシッと決まっている人は実年齢よりも若く見える。

 

身体の姿勢と目線、これは比例していて目線の先に何を見ているかでもその人の気力が変化する。

 

うつむきながら歩いていたらどんより感、

前を向いていればハツラツ感。

 

内面が体の外に溢れ出す、気の持ちようがすべてを成す。

 

一番外側に纏うものは、人生経験を重ねてきた味わい深いオーラにしたい。

これにはもっと、経験が必要なのだろう。

 

その時々の新鮮な気持ちでこれからも人生を突き進んで、

味わい深いオーラの成熟は時間に任せ、

ハツラツとした姿勢で歩いていこう♪♪

 

 

 

 

 

 

4毒食品との付き合い方

植物油、小麦、乳製品、甘い物。

この4毒食品を大幅に抜く生活を約2年してみたあと、

4毒禁止を解除して生活をしてみている現在。

 

4毒を食べない生活では、体調はすこぶる元気で、身も心もいうことなし。

そして、「欲」というものも激減した。

食欲、物欲、体験欲など。

毎日が平坦。

段々と退屈に感じられるようになってきた。

 

身体のどこかに悪いところがあればそれを改善しようと躍起になって、色々と行動を起こす。

でも、4毒を食べなければ、悪いところは特に出ず、何も施す必要がない。

 

手を出さなくていいということがなんだか物足りなくなってきたのだ。

 

悪いところって、グチグチ言いたくなるけれど、良いところって特に発言しない。

 

あとは、4毒を避けていると外食なんてもってのほかなので、旅も敬遠する。

誰かと何かを食べに行くことも敬遠する。

 

生活の幅が狭まって、世界も小さくなって、外出が今まで以上に億劫になってきている気がしてきて、人との接触も最低限になってくる。

 

ちょっと窮屈な生き方にも感じてきた。

自分一人ならそれでもいいけれど、夫と子供にまでそんな窮屈さを渡すつもりはない。

 

なので、この春頃から、4毒注入緩和措置をとり、現在に至る。

これまで通り小麦の主食はせず、あえて植物油の多い食事を摂るようなこともしない。

でも、ときどき食べたいと思うなら食べることにした。

緩和しだした頃はやはり中毒症状で大量に食べることが多かった。

そしたら、見る見るうちに体調に不具合勃発。

不具合の中でも受け入れたくない不具合もあるので、やはり4毒はほどほどにするべきだと確信。

 

それから4毒食品の過剰摂取はせず、ほどほどにたまに食すぐらいに、ぼちぼちとやっている。

 

最近は、植物油にいち早く体が反応し、すぐ吹き出物と化する。

小麦は、全身がかゆくなる。

甘いものは、患っている病巣の炎症を増幅させてくる。

 

4毒を摂りすぎたらどうなるかの情報と、自分に出る症状は一致しており、やはり4毒食品との付き合い方は考えるべきだと思った。

 

広く浅くが良いのだろうか。

全く食べない生活も良かったが、たまに食すぐらいは良いかなと。

 

ドツボにハマらぬようこれからも暴食は厳禁だ。

 

 

 

 

 

 

 

資格証明書 か 実務経験 か

世の中に資格という名の証明書がたくさんある。

 

資格所持者がモノを申す時代。

なので資格試験の合格をまず目指す。

 

実務経験は二の次。

ペーパー試験 > 実務。

 

この構図にいつも疑念を抱く。

 

実技を得てから最終確認で試験をするのはわかる。

自動車の運転免許はそうである。

 

でも、世の中にはびこっている資格には、

ペーパー試験だけのものも実に多い。

 

事務関連の資格においては試験勉強が実技練習にもなるであろうが、

実社会において物理的に行為が必要な専門職は、資格取得だけで実際に行動できるかは疑問だ。

予備知識として資格試験の勉強をするメリットはもちろんある。

だが、資格を所持した時点でその資格の効力を発揮できるかは不明だ。

 

昔なら、能力のある人に弟子入りして、その師に認められてやっとその道に進める。

それだと確実に技能は身についている。

 

現代の場合は、ペーパー試験合格により肩書ができる。

そのような現代の資格という名の証明書を信頼できるであろうか。

資格試験市場にハメられているだけに感じる。

 

知識と行動、どちらも伴ってからの資格である。

 

経験をつんでから資格を得るのではなく、資格を得てから経験を積む。

これだと資格という存在が軽い気がする。

 

資格証明書はなくとも、実務経験豊富な人が迫害される世の中だ。

 

「人を見るのではなくデータを見る世の中」

 

この言葉を聞いた時、端的でわかりやすく納得した。

 

確かに今の医者や教師や会社は、数値ばかり追っている。

何もかもデータ化して、見える化して、見えないところは見ていない。

見ないために感じない。

 

感覚も鈍くなっている。

 

しかしどの世の中も商売の相手はすべて生身の人間だ。

 

人を見ずして金儲けができる世の中ということは、それだけ情報化社会の洗脳下に置かれているということだ。

 

いかにして収集されたデータから外れ、世の中を俯瞰して見ることができるか。

 

データに当てはまらず我が道を行く、これからも。

 

 

 

 

 

お世話とは何か…?

お世話をする立場にある人は、なぜお世話をするのか。

 

お世話対象者が世の中の規律からはみ出さないように、

お世話をいうものがあるのかもしれない。

と、ふと思った。

 

もし規律がなかったら、

お世話をする人は少ないのでは?

お世話する側もお世話されている側も、もっと自由になるのでは?

 

そんなことが頭をよぎった。

 

赤ちゃんのお世話。

まずは自分で歩けるようになるまでお世話する。

こどものお世話。

これから大きくなって社会に出ていけるようにお世話する。

お年寄りのお世話。

身体の不自由さが出てくるので、周りが支援する形でお世話する。

 

もし、独りよがりな状態が可能な世の中であったら、

お世話の必要性は感じないかもしれない。

 

現実は、

人間社会の中で生活している。

個々は社会の一部である。

 

もし、規律からはみ出しても良かったら、

頑張ってお世話する必要はなくなるかもしれない。

 

規律を遵守する人は、お世話を頑張りすぎているかもしれない。

 

規律。

ときには守れないことだってある。

人間は機械ではないのだもの。

 

規律。

もう少しあそびを持たせると良いかもしれない。

100点満点ではなく、60点ぐらいを保てれば許容する。

 

お互いの見張りあいっこ。

これが現代では行き過ぎなところがあるように思う。

寛容さの欠如によって。

 

現代のお世話は過度な対応も多い。

本来のお世話は支援程度ではないだろうか。

過保護の弊害も垣間見える昨今だ。

 

お世話の目的を見失ってしまっているのかもしれない。

 

「何のために今このお世話をしているのか」

ときどき立ち止まり、この自問自答をしてみたら、

お世話の仕方、お世話する時の気持ち、お世話の必要性など、

色々と見えてくるのではないだろうか。

 

規律通りのお世話ではなく、

規律内の我流のお世話ができると、

お世話がお節介ではない、お互いの喜びとなるかもしれない。

 

手を焼くのもほどほどに。

 

 

 

 

 

 

 

ミニマリズムから気づいたこと。

ミニマリズムな考えに、

「今現在は不要なので手放して、必要になった時再び手に入れる」

という考え方がある。

 

これは現代だからこその言葉だなと感じる。

通販社会で、頼めば翌日に宅配が来る。

瀕した環境を知らない人の発想かもしれない。

大抵のものがすぐ手短に手に入る時代。

私もその時代しか知らない。

100均での購入と手離しの繰り返し。

これは使い捨て感覚の消費の仕方。

お手軽さ。

その名の通り軽率な行動に出ていた。

 

ものづくりの時代を知っている先人。

その方々は「もの」を単なる物として見ない。

その目の前にあるものの裏側を想像している。

それがどのように出来ているか観察し、出来上がるまでを想像する。

ものの組みあがり方、出来栄え、それから材質。

総合的なものの見方。

 

手に取るもの、手に入れるもの、

あらゆるものに対して、表面の上面だけを見るのではなく、

その奥の、ものが出来上がるまでの時間や工程、作り手の想い…

そこまで想像できるものを丁寧に扱う心、

今の私にはその心が不足している。

 

「想像を馳せる」

人間だからこそできる技。

”人間力発揮”ができるようにするために、

日常を丁寧に暮らす心掛け、

毎日の新しい発見を楽しむ心、

そして、今がいつも幸せと感じる感性、

それらを再び蘇らせていこう。

 

気づくことから日々を変えていく。

前進しては寄り道して、後戻りして、また前を向く。

 

繰り返し繰り返しで気づくこと。

気づいたことに喜びを感じ、

そして工夫を凝らしていく。

 

観察、想像、行動、学習、予測、

そうしたら、腑の落としどころに辿り着く。

 

これからも繰り返し繰り返しで、

毎日、自分更新。

みんなで、行進行進!!

 

 

 

 

 

筋の通った日本の季節

日本の四季

 

冬に常々思うことがある。

ああ、すごく寒い。いつまでこの寒さは続くのか…。

しかし、一生続くのではない。

また春がやってくる。

 

そんな寒い季節になる12月。

日照時間も最短になる12月。

でも冬至を過ぎれば少しづつ日照時間も増えてくる。

 

そして寒さが深まり迎える新年。

心機一転の気持ちよさ。

 

更に寒さが一層下がる2月。

夜明けの時間は早くなる。

 

この、日の昇る時間が早くなると、春が近づいていると感じる。

 

だんだん花も増えていき、

3月4月にはあの淡いピンクのやわらかな桜が咲き誇る。

 

このサイクルがとても素晴らしいなと常々思う。

どん底に寒い時期でも、日の出時間が早くなるので、

気持ちは明るくなっていく。

 

春を待ちわびて迎える満開の桜。

行く先々で見かける桜並木。

 

みんな大好きな桜の木。

 

そんな桜の季節に新年度が始まる日本。

虫や鳥や植物、様々な生き物が目覚める季節。

 

新生活を始めるのに持ってこいな気持ちの良い季節。

 

日本の一年の流れが理にかなった動きになっているのだと改めて実感。

 

自然の流れに沿うように、歩み寄り、寄り添い、わかち合う。

 

この日本の時の刻み方がとても誇らしい。

 

今日は5月18日、気温がだいぶ夏に近づきつつある。

眩しい太陽の日差しに、熱い太陽の光。

時折吹く風が心地よい季節。

 

それぞれの季節の良さを感じ、次の季節を恋しく思う。

季節を楽しむ工夫をこれからも。

 

 

 

 

完璧な健康は目指さない

健康と一言でいえど、個人によって程度の差はある。

ならば、健康の度合いも人それぞれで、

完全な健康の人もいれば、そこそこ健康な人もいる。

定義づけは一概に難しい。

 

私個人で考えてみると、身体のサインがどのくらい出ているか、

湿疹、吹き出物、便秘、身体の硬さ、冷え、シミ、イライラなど。

これらのどれかの症状が数日から一週間と続いたら、食事を見直す。

 

今では、あれを食べたらこんな症状になるなど、食べ物と症状との結びつきが把握できるようになってきた。

 

立て続けに症状の出る食べ物を食べると、立て直すのにも時間を要する。

食べ続けた1.5倍ほどの時間が、改善するまでに要する時間。

 

身体は正直だ。

なのでその身体から発せられる症状をいかに察知するかがこちらの役目。

症状がない状態は、やっぱり何かにつけてパフォーマンスが良い。

症状が一つでもあると、その症状が気になって集中力に欠く。

 

長年食べ続けた食べ物への依存に中毒。

これらを一切とりさることは現状ではできない。

お金を持たず、自給自足の生活をしていれば、断つことができるかもしれない。

でも今は、現代社会の中でまだまだ暮らしていく。

 

そして、不完全なこの健康状態が、何より好きなのかもしれないのだ。

今日は吹き出物がでたな、シミが増えてきたな、便秘が続いているな…。

こんな症状が出た時、「世話の焼けるやつだな」と自分に対して思っている。

だからこそ自分を労わってあげる。

 

こんな循環が日々を彩っているところがあるように思う。

こんなことがあっただの、あんなことがあっただの、誰かと会話する時のネタに。

 

どちらかというと自虐ネタが好きなので、悪いことがあった方がネタになる。

そんなこともあり、常々爽快すぎては話題がない。

 

話題作りのために不健康になる必要はないけれど、

問題が何もない状態もちょっと不具合に感じるのだ。

 

弱い自分が可愛いのだろう。

 

自虐することで生きている実感が湧くところもある。

結局のところ、自分に甘く我がままなのだ。

 

こんな調子で自分の都合で、食べ物の塩梅も決めていく。

身体と相談していこう。