こまにまにこ’s blog

夫と子どもをみていて感じること→そして自分の見直し+必要最低限な暮らしを目指して。

魂年齢と精神年齢

精神年齢は高い方がいい?低い方がいい?

 

今回はこんな話を聞いたので、魂年齢に続き、書いてみた。

 

私は精神年齢が高いと思っていた。

だけど、子供時代に抱いた気持ちは忘れられず、持ち続けている。

 

自分の子供たちの学校や友人関係の話を聞くと、頭の中でタイムスリップして過去の私の感情を引出し、子供たちと共有する。

夫にも、子供の頃こんな時どうだったかを聞いてみるが、「忘れた」と一言返ってくるばかり。

 

私の感情や思考は、小学5~6年生から中学生の頃のままではないかとたまに思う。

ちょうどその頃が、身体も思考も周りも激変した時期だ。

良くも悪くも目まぐるしく変化した。

 

どうやら私の場合、この時期が精神年齢になっているようだ。

 

精神年齢が高いと、学歴やら肩書やらがほしいらしい。

理想の精神年齢は13~14歳らしい。

 

そして、魂年齢は精神年齢と相反するそうで、

精神年齢が高いと魂年齢は低く、

精神年齢が低いと魂年齢は高いらしい。

私たち夫婦で例えるなら、前者が夫、後者が私。

 

私は学歴や肩書で人を判断できない。対話してその人をさぐり、人として信頼できるか判断する。

世の中の誰かが作った規則に当てはめられた名誉のようなものに、元から価値を置いていないのだ。

 

なのでその分、生きにくい世の中でもある。

そのあたりは臨機応変にのらりくらりと渡り歩いて。

そのあたりは私より得意な夫に任せておいて。

私はふらふらと軽やかな足取りで前進する。

 

精神年齢が高いフリには無理があったみたい。

魂年齢が高いのだから、精神年齢は10代前半でいいじゃない。

これまた腑に落ちた。

そういことだったのかと一人納得。

 

人は人。私は私。十人十色。

 

 

新たな気づきが私の心を軽くする。

 

気づくってなによりも自分発見。

ついでに、周りに対しても発見だらけ。

 

これからもふわふわと歩いていこう☆

 

 

 

 

 

 

肉体年齢と魂年齢

魂年齢の話を聞いたら、,納得がいった。

 

魂は、肉体が尽きるとまた新たな肉体に宿り、別の人生を歩む。

そんな話を最近知ったのだ。

なので、必ずしも肉体年齢と、魂年齢が同じという訳ではないということだ。

 

そう考えると、自分の言動や考え方がなぜこうなのかが説明がつく気がした。

私は声が小さく、動く音も小さく、リアクションも小さい。

いつも落ち着いていて冷静で、一歩離れて自分を見ている感じだ。

 

幼少期においては、子供なら好きだろうという遊びが苦痛だった。

かくれんぼ、花いちもんめ、椅子取りゲーム、競い合う…等々。

走り回るのは嫌いではなかったので、それなりに遊んでいたのだけれど。

なんせ、平和主義で、争いが嫌いで、わめくのも苦手。

 

肉体年齢よりも魂年齢が相当高かったのではないかと。

 

今は40歳。

魂年齢は倍の80歳かなあ。

 

そういえば過去に、

「亀みたいにのろまでおじいさんみたい」

と20歳代半ばの時、もうすぐ60歳の女性上司に言われたな。

いやあ、なかなかの暴言ですな。

未だに根に持っている…というより忘れられない出来事。

 

普段から無駄な動きをせず、頭でシミュレーションして、スーっと動くタイプだった私。

その上司は、せわしなく動き、動作も大きく、慌てていることは一目瞭然な行動をする人だった。

私の魂年齢が実際の年齢より40歳年上だとしたら、60歳の人から見てもおじいさんに見えるよね。

腑に落ちた。

 

夫を見ていてもうちの子供たちと大差ない行動をするので、夫は肉体年齢と魂年齢が等しいのかな。

 

そうやって物事をみていくと、納得なっとく。

私のような振る舞いを同い年だからといって、夫ができる訳ではないということだ。

 

個々それぞれ、千差万別。

肉体年齢だけで人を見極めることも難しいってこと。

 

私は私。夫は夫。それでいいよ◎

 

 

 

 

日本語と英語

日本語はとても複雑な言葉使いをする。

英語の映画を字幕でみていると、英語では同じ言葉を発しているが、

日本語の字幕はすべて違う言葉に訳されている。

 

日本語の数だけ英語があったなら、日本人は英語もたやすく喋ることができるかもしれない。

 

最初から複雑な思考をしてしまうため、

単純な組み立てだけで英文ができてしまうことに理解ができず、

英語が苦手な日本人が多いのかも。

私がそれだと気づいた。

 

ひらがな、カタカナ、漢字

文字だけでも種類が多い日本語。

そして、「わたし」と表す言葉もたくさんある。

方言やら年代やら、表現の違いがたくさんある。

 

いかに自分という人間を細かく表現するか、

細かく表現することで他者へ自分を知ってもらう、

見えない部分を見えるように言葉化することが日本人は得意なのかもしれない。

 

英語は表現言葉が日本語より少ない分、補足として身振り手振りが付き物なのだろう。

 

表現力が豊かな日本語。

その日本語を網羅せずに英語を学んでしまうと、

より日本語の使い方がわからなくなりそうな気がする。

 

今は小学三年生になると英語の授業がある。

発音することが恥ずかしいと感じる年齢ではないので、その点はいいが、

「Yes・No」の表現を多用されると、困る。

 

子供には、もっとたくさんの言葉を付け加えて自分の考えや思いや気持ちを表現してほしい。

それから、誰かに何かを伝えるとき、一つの表現だけでは通じないこともあるため、

代替えの言葉も使えるようになってほしい。

 

感じ取る言葉 = 日本語

形のないものを言葉にする

見えないものを言葉にする

 

”表情豊かな日本語”

 

もっと丁寧に日本語を話したい。方言も大事にしたい。

私の出身の大阪弁のテンポの良さも忘れずに。

 

 

 

 

核家族、自己主張、そして差別。

核家族が現代の問題を大きくしていることは十代の頃から感じていた。

 

戸建て住宅の駐車場付きが当たり前になったり、家と家の間の路地を策で囲ったり、

あらゆることが包囲された状態になっていっている過程を見てきた。

 

私が子供の頃に好きだった風景は、いま、ほとんど残っていない。

 

自立と言い換えれた孤立は、どんどん加速し、集団生活を分断していった。

それにより人々の心の在り方にも変化が起き、独裁的な発想を個々が持つようにもなった。

主張が良いことのように思われ、言ったもん勝ちな世界が作り上げられている。

 

本来の主張とは、個人が主張するのではなく、近所の人たちが寄り合って地域ごとに主張することが「主張」だったのではないか。

 

いまの時代の主張って、「自己主張」であり、単なるわがままでしかないように思う。

 

それから差別についても、意味をはき違えているように感じる。

差別とは個人個人が違う人間であることを意味するのだと思う。

それぞれがそれぞれの考えや思うことがあり、感じ方さえ違う。

それらを同一のものとして捉えることの方が無理がある、不自然だ。

 

差別化することはむしろ、その人や物の特別さを認識するから起こることで、

差別化したことにより人や物へ攻撃することが良くないわけで、

個々を生かすには差別化は必要なのではないか。

 

日本語を英語的に表現するから、言葉の使い方や意味の捉え方がぐちゃぐちゃになってきているのかもしれない。

 

自分がされたくないことを他者へもせぬのが単純明快だ。

相手の立場には立てぬが、自分だったら…と考えることはできるだろう。

 

核家族がもたらしたと思うことが、もう一つ。

3世代、4世代での生活が少なくなっている現代は、

色んな世代の生活を目の前でみることが非日常である。

そのため、子供を子供として見ず、性の対象になってしまっている。

お年寄りが厄介者になってしまっている。

あらゆる世代が協力し合って生活を送っていれば、このような視点は生まれなったのではないだろうか。

2世代だけだと、子供の家庭内での逃げ道も少なく、大人の家庭内での逃げ道も少ない。

 

空き家が増える理由も、家の寿命が短いのも、一人暮らしが多いのも、

犯罪が増えるのも、病気が増えるのも、忙しく過ごすようになったのも、

わがままな人が増えたのも、気力のない人が増えたのも、

すべてこの核家族化がもたらしたことのように感じる。

 

家庭崩壊とはこのことか。

 

家庭崩壊すれば、学級崩壊も社会崩壊もそら起こるわな。

 

私も核家族で母親業と妻業をしている。

息苦しいよ確かに。

母親業も妻業も、辞めたいときがあるのだけど、辞めれるときがない。

 

このブログが今は逃げ道となっているかもしれない。

誰にも話さぬ心の内を、ここに書いている。

 

みんな、ただ、話を聞いてほしいのだよ。

 

 

 

 

夫婦の会話の有無 夫婦で感覚が違う

家庭内において、夫婦の会話は特にないと感じている私。

だが夫は夫婦の会話はあると思っている。

感覚のずれなのか、価値観のずれなのか…

私の思う夫婦の会話とは、他愛もない話ができているかである。

夫とは、二人目が生まれるころからそのような話はできていないと思う。

かれこれ8年以上にもなるのか。

 

なぜそうなったのかというと、私が雑談を夫へするのを辞めたのだ。

聞いていなさそうだし、聞きたくなさそうだし、独り言に感じたから。

辞めたといっても徐々に少なくしていったと思う、無意識に。

 

夫の仕事が忙しくなって、夫自身いっぱいいっぱいだったのも手伝って、

家でも夫はスマホの相手に忙しくしていた。

 

食事は喋らず静かに食べたいようなので、食事中の夫とは会話はしない。

一緒に食事を開始した夫は真っ先に食べ終わり、

その後すぐにテーブルを離れて独りスマホに没頭する。

 

スマホを見ていなければテレビかパソコンか、寝ているか…

とにかく家に家族がいたとしても、夫はほぼ独りで過ごしている。

子供達が騒げば、「うるさい!!!」と一喝。

誰が話しかけるよ、そんな夫に。

 

実際に今、夫婦で会話するといったら業務連絡に限る。

手伝っている夫の仕事に関係する話か、子供の身の回りの出来事か。

この業務連絡にすぎないと私が思う話を、夫は夫婦の会話と思っているようだ。

 

私がどんな時にどう物事を捉え感じ思考するのか、夫は知らない。

だけど、夫の中では出逢った頃の過去の会話から私を判断しているようだ。

 

出逢ってから17年経つ。

その間に私の身の回りには大きなことが起き、私という人間の思考や視点をガラリと変える出来事も複数あった。

当然、私は17年前の私とは違う。

見た目も中身も、だいぶ進化した。

そんな進化した私の考えを夫は知る由もない。

だって、もう他愛のない話を夫にはしていないのだもの。

 

「夫には絶対雑談なんぞせん!」

そんな風に覚悟を決めた出来事があったのだ。

4年前、夫が事業主になってからというもの、言い合いが絶えなかった。

私の仕事ぶりに夫は不満だらけで、夫自身、経営にも不安があったためだ。

私も家事育児仕事で、パンクしていた。

そんな頃に、私が私情の話を夫にしたら、

「僕にその話関係ある?僕に関係ない話はせんといて」

と突っぱねられたのだ。

「えっ!?」

となるよね、一緒に住んでる家族なのに、雑談断られた…

その頃の夫は家庭より仕事を優先していたのだよね。

本人はそんなことに気づきもしないけど。

その夫の言葉をきっかけに、業務連絡以外の話はご法度だと考えるようになった私。

そしてそんな生活が今も続いている。

 

”離婚”という文字が妻の頭をよぎる要因の一つがこれかもね。

複数の友人たちも同じように感じているので、男女差によるだけなのかもしれないけど。

 

今の夫の優先順位は、仕事と家庭と五分五分なので、良しとする。

家庭内での夫の態度は相変わらずなのだけど。

 

夫婦の会話の有無についての結論は、

”妻は無い”と思っていても、”夫は有る”と思っているということだ。

 

そこは感覚のずれなので、今のところ、そっとしておこう。

 

今日の会話も業務連絡のみ!笑!

 

 

 

着物を身にまとう

着物の生地には元々興味があり、手に入れた着物をほどいて、

服を作ってみたり着てみたり…

そんなことをしていた頃もあったのだけど、最近はほどかずにそのまま、

まとってみるようになった

 

着物のまま着用することに抵抗があったのは、

 袖

 タイトな足元

 帯の締め方…等

動きにくい、着方が難しい、自由がない

そんな勝手なイメージがあったから

 

でも実際はそんなこともなかった

タイトな足元がゆえ、大股歩きは確かにできない

しかし、自然と小股で歩くので身体に負担が少ない

袖の長さは、気になる

これも気になるからこその所作が生まれる

袖を持ち上げて物を取るので動きに品が出る

帯の締め方に関しては、普段着ならなんでもいいということだ

着物がはだけず活動できるように結べればよいのだ

 

着物を着るのが大変というイメージは、フォーマルな着方でのことだったのだ

 

考えてみれば、洋服でもフォーマルな着こなしはやはり悩む点が多い

それと同じだったのだ

 

普段着の着物は、普段着の洋服と同じように、その日の自分の活動に合わせて

着こなせばそれでよいのだ

そもそも着物が一般的な身にまとうアイテムだったのだから当然ちゃあ当然だ

 

厳格な規律があるのはフォーマルとして着用する着物についてのみであること

 

着物ってフォーマルってイメージしかなかったのは、既に普段着が洋服であったのと

普段着物の生活を目の前で見たことがなかったから

着物を目にするのは、七五三や成人式や結婚式と、特別な日だけだった

いかに着物から遠のいた生活をしていたかがわかる

 

ここ数年の私服選びでは、袖ぐりの大きなも、ハイウェストなもの、

それでいて全体的にゆったりしたシルエットを選ぶようになった

 

その選んだ服は、どこか着物に通ずるものがあると感じる

 

と、ふと、それなら着物でいいんじゃない?とも思った

が、自転車に良く乗るので、着物で自転車は乗れない?かなと

でもネット検索してみると、着物で自転車を乗る人もちらほら

破れるかもしれない覚悟はいるかも

 

でもやっぱり着物を着て、草履を履いて、ちょこちょこと歩く方が、

ゆとりがあっていいと思う

 

着物が敬遠された理由に、時短があるのじゃないかと思う

せかせかした現代には優雅な振る舞いは省かれ、心の余裕も省かれた

そんな気がする

 

もし、現代人がみんな着物を着ていたら、

街を行き交う人々にももっと気品があって、

周囲に気遣いもでき、雑踏もなく、

みんながゆとりある行動ができるのでは?

との妄想すらしてしまう

 

そのぐらい、着物には日本人らしさが詰まっている

 

日本人気質を呼び覚ますには着物がもってこいである

 

子供に着物を着せたとき、一目瞭然だった

まず、所作が自然とおとなしく、上品になったのだ

袖の振りがあり、足元が開かないため、

子供なりに着物に合わせた動きをしていた

 

生活には、「衣食住」といわれるが

まさしく「衣」は「着物」

着物を着るだけで着物から教わることがたくさんある

 

無限の可能性を感じる「着物をまとう日」をもっと増やしていこう!!

 

 

 

「病気」と言う名のレッテル?お墨付き?

世の中には本当にたくさんの病名がある

分類しているのだろうけど、その病名にだけ当てはめてしまうと危ない気がする

その人を総合的にみて、その病気に近しいだけであって、

その病気だけが原因の不調ではないことが大半だ

 

だけど、病院へ行って医者に診察してもらって、

○○病や○○症やらとお墨付きを言い渡されると、安心するのかなあ

医者による分類が確定されると、その病名の薬を貰う

薬を貰えたら安心するのかなあ

 

人はそもそも知っている情報内で判断する

医者ももちろんそうで、自分の知識内で患者を判断する

でも個人個人の詳細など知りはしない

結局のところ自分が自分のことを一番知っている

 

自分の詳細と、医者のお墨付きと、両方の情報により最終判断することが一番だ

 

今は探せば情報は色々と出てくる

症状についても調べれば知識は得れる

 

自分はこの病気であるとレッテルがあれば、安心する面もあるだろう

ようするに、世の中のどこかには自分と同じような症状に苦しんでいる人が少なからずいるのだということだ

ただ、そのレッテルが欲しいのだ

独りじゃない証のレッテル

 

自分の心身に今ある症状を、病気としてしまうのか、単なる不調とするのか、

はたまた体の周期による通過点と捉えるのか

これもまた人それぞれである

私は○○病かもしれないと思っても、今までを思い返すと、

大体が体の周期による不調だと気づく

○○病かも!?と思うこの「○○」には、その時々で違う病名が浮かんでくる

それだけ身体は常に一定ではないということだ

 

それをことあるごとに病院へ行っていては疲弊するだけだ

病院へいく労力、診察までの待ち時間、待ち時間より短い診察時間、

こちらの観察なしにパソコン画面と対話する医者、とりあえず処方する薬、

会計待ちの時間、薬局へ薬を買いに行く時間…

症状の改善って結局時間の経過が解決してるんじゃないの?としか思えない

 

最近出くわした医者は、早口で、せかせかしていて、こちらの話を最後まで聞かず切り上げる、追い返すような対応ぶりだったよ

 

現代人はみんな、何かに追われている、せかせかイライラ、心の余裕なんかないね

 

その要因としてひとつ服装があるなと最近気づいた

「着物」はそんなせかせかイライラを解消してくれるのではないかと思うように

次回は着物について書こうと思う