こまにまにこ’s blog

夫と子どもをみていて感じること→そして自分の見直し+必要最低限な暮らしを目指して。

核家族、自己主張、そして差別。

核家族が現代の問題を大きくしていることは十代の頃から感じていた。

 

戸建て住宅の駐車場付きが当たり前になったり、家と家の間の路地を策で囲ったり、

あらゆることが包囲された状態になっていっている過程を見てきた。

 

私が子供の頃に好きだった風景は、いま、ほとんど残っていない。

 

自立と言い換えれた孤立は、どんどん加速し、集団生活を分断していった。

それにより人々の心の在り方にも変化が起き、独裁的な発想を個々が持つようにもなった。

主張が良いことのように思われ、言ったもん勝ちな世界が作り上げられている。

 

本来の主張とは、個人が主張するのではなく、近所の人たちが寄り合って地域ごとに主張することが「主張」だったのではないか。

 

いまの時代の主張って、「自己主張」であり、単なるわがままでしかないように思う。

 

それから差別についても、意味をはき違えているように感じる。

差別とは個人個人が違う人間であることを意味するのだと思う。

それぞれがそれぞれの考えや思うことがあり、感じ方さえ違う。

それらを同一のものとして捉えることの方が無理がある、不自然だ。

 

差別化することはむしろ、その人や物の特別さを認識するから起こることで、

差別化したことにより人や物へ攻撃することが良くないわけで、

個々を生かすには差別化は必要なのではないか。

 

日本語を英語的に表現するから、言葉の使い方や意味の捉え方がぐちゃぐちゃになってきているのかもしれない。

 

自分がされたくないことを他者へもせぬのが単純明快だ。

相手の立場には立てぬが、自分だったら…と考えることはできるだろう。

 

核家族がもたらしたと思うことが、もう一つ。

3世代、4世代での生活が少なくなっている現代は、

色んな世代の生活を目の前でみることが非日常である。

そのため、子供を子供として見ず、性の対象になってしまっている。

お年寄りが厄介者になってしまっている。

あらゆる世代が協力し合って生活を送っていれば、このような視点は生まれなったのではないだろうか。

2世代だけだと、子供の家庭内での逃げ道も少なく、大人の家庭内での逃げ道も少ない。

 

空き家が増える理由も、家の寿命が短いのも、一人暮らしが多いのも、

犯罪が増えるのも、病気が増えるのも、忙しく過ごすようになったのも、

わがままな人が増えたのも、気力のない人が増えたのも、

すべてこの核家族化がもたらしたことのように感じる。

 

家庭崩壊とはこのことか。

 

家庭崩壊すれば、学級崩壊も社会崩壊もそら起こるわな。

 

私も核家族で母親業と妻業をしている。

息苦しいよ確かに。

母親業も妻業も、辞めたいときがあるのだけど、辞めれるときがない。

 

このブログが今は逃げ道となっているかもしれない。

誰にも話さぬ心の内を、ここに書いている。

 

みんな、ただ、話を聞いてほしいのだよ。