平等という言葉。
この言葉が混乱を招いているのではないかと最近思う。
平等をうたうことは、差別をなくすことにもなる。
差別、必要な差別もあるし、必然的な差別もある。
差別がないと、皆、画一した無機質な世界になる。
個々の尊重を訴えながら、平等を唱え、差別を取り去る。
なんと矛盾しているのだろう。
平等な環境が当たり前の社会になってしまうと、発展は望めない。
差別化するから経済も回る。
家庭環境の平等はまずない。これは運命でしかない。
子供でいる間は大人になって抜け出るまで辛抱するのか、逃げ出すか、
協力してもらえる大人を見つけ出すか。
まずは、自分の家庭環境以外の世界を知ることが何かの思考を巡らせてくれるはず。
ヤングケアラーという言葉にも罠があるような…
現代におけるヤングケアラーに分類されるかもしれない子供たちは、
学校では学べない生活力を実践している。
「生活する」「生きていく」ということを目の前で学んでいる。
それよりも学校の教育を優先なんて、なんか恐ろしい。
セカンドパートナーという言葉にも違和感が…
なぜ、十代や二十代のようなトキメキや高揚感などを中年になって求めるのか。
なぜ、過去の若かりし頃のキラキラ感を中年になってからも体験したいのか。
皆、現実を受け入れられず、理想を追うようになったのだろうか。
その理想が現代は手に入れやすくなったということだろうか。
理想という妄想、それを現実の世界に持ってきてしまう。
これらの発想、思考は、飢えがない世界に起きることかもしれない。
「生きる」という当たり前で難しいことが、
現代人には当たり前でしかないのかもしれない。
動画配信も誰もができる時代。
いわば、誰もが画面上で主役を演じれるのだ。
色んな方法で公然と主役になれる時代、
自分を見失いやすいのかもしれない。
はたから見れば気づくことも、本人は気づかない。
普段の群れが核家族や独り暮らし。
身近に俯瞰して客観的に見守ってくれる人がいない。
飽食時代が生んだ社会で成り立つ個々の自由。
「大丈夫ですか?」と、今一度、自分にも問い正したい。