こまにまにこ’s blog

夫と子どもをみていて感じること→そして自分の見直し+必要最低限な暮らしを目指して。

平等という言葉のもとに…

平等という言葉。

この言葉が混乱を招いているのではないかと最近思う。

平等をうたうことは、差別をなくすことにもなる。

差別、必要な差別もあるし、必然的な差別もある。

差別がないと、皆、画一した無機質な世界になる。

個々の尊重を訴えながら、平等を唱え、差別を取り去る。

なんと矛盾しているのだろう。

 

平等な環境が当たり前の社会になってしまうと、発展は望めない。

差別化するから経済も回る。

 

家庭環境の平等はまずない。これは運命でしかない。

子供でいる間は大人になって抜け出るまで辛抱するのか、逃げ出すか、

協力してもらえる大人を見つけ出すか。

まずは、自分の家庭環境以外の世界を知ることが何かの思考を巡らせてくれるはず。

 

ヤングケアラーという言葉にも罠があるような…

現代におけるヤングケアラーに分類されるかもしれない子供たちは、

学校では学べない生活力を実践している。

「生活する」「生きていく」ということを目の前で学んでいる。

それよりも学校の教育を優先なんて、なんか恐ろしい。

 

セカンドパートナーという言葉にも違和感が…

なぜ、十代や二十代のようなトキメキや高揚感などを中年になって求めるのか。

なぜ、過去の若かりし頃のキラキラ感を中年になってからも体験したいのか。

皆、現実を受け入れられず、理想を追うようになったのだろうか。

その理想が現代は手に入れやすくなったということだろうか。

理想という妄想、それを現実の世界に持ってきてしまう。

これらの発想、思考は、飢えがない世界に起きることかもしれない。

「生きる」という当たり前で難しいことが、

現代人には当たり前でしかないのかもしれない。

 

動画配信も誰もができる時代。

いわば、誰もが画面上で主役を演じれるのだ。

 

色んな方法で公然と主役になれる時代、

自分を見失いやすいのかもしれない。

はたから見れば気づくことも、本人は気づかない。

 

普段の群れが核家族や独り暮らし。

身近に俯瞰して客観的に見守ってくれる人がいない。

飽食時代が生んだ社会で成り立つ個々の自由。

 

「大丈夫ですか?」と、今一度、自分にも問い正したい。

 

 

 

上から目線な発言の深層

上から目線な発言をよくする夫。

そんな発言を耳にするたびに、私は心地悪くなる。

 

ある団体(自分とはジャンルの違うの人たち)を見ては、「頭の悪そうな人」と言う。

仕事をやり切った時には、「やりすぎなぐらいしたから、(お客さんが)満足しないはずがない」と言う。

隣にいた人を見ては、「…日本人じゃない」と言う。

私に対して何かをした時、「したったで」と言う。

私が夫の意図する動きをしなかったら、「○○してくれない」と言う。

 

否定的、拒否的な言葉遣いの多いこと!!

 

私からすると、とても耳障り。

 

これらの発言等(↑ごく一部の例)から、推察するに、

夫はコンプレックスの塊なのではないかと疑念を抱くようになった。

 

・自分に自信がない

・いつも不安

・何かに怯えている

 

このような気持ちが潜在意識にあり、自分を守るための手段として、

上から目線な発言や行動をするのだろうと思われる。

 

幼少期、親に

・自分の提案を拒否されいつも認められなかった

・何かに挑戦する前に辞めさせられていた

・してはいけないことばかり口うるさく言われていた

 

これらも夫にはあてはまるだろう。

 

そして、夫の言動には品がなく、私を不快にするのである。

動作の大きな音や、その場に適さない言葉遣い、物を投げ置く。

他者の出来ていないマナーは気にして、指摘する。

 

他者に対して指摘する事柄は、たいてい夫も出来ていないことである。

このことに本人は気づいていない。無意識には気づいているのかも。

 

一生、このような夫の言動を見守らなければならないかと思うとげんなりする。

なので、その内それらを見なくて済むように、どこかへ逃げようとは思っている。

 

やっぱりね、一緒にいる人の言動って、知らぬ間に移ってしまっているのだよ。

そんなの嫌だし、品のあるおばあちゃんになりたいもの。

 

一生、今の生活環境だと思ってしまうと息が詰まっちゃう。

今の環境が良くないのなら、そこから逃げ出しちゃえばよいのだよ。

そこに拘束しているのは自分なのだから、逃がしてあげるのも自分だよ。

気持ちだけでもすぐに逃がしてあげられるよ。

 

そう自分に言い聞かせて、今後どう乗り越えていくか模索中。

 

 

 

女性脳と男性脳

脳における性差。

こればっかりは理解不能

理屈ではわかるのだけれど、

認めがたい事実。

 

夫へ腹の立つことと言えば、

言い方や、言葉の選び方。

そしてタイミング。

男性脳によるものらしいが、

苦痛でしかたがない。

 

逆に夫から私をみれば、

同じように思っているのだろう。

私が夫に感じていることをそっくりそのまま夫から指摘されるから。

 

最後の一言が多いだの、そんなこと言わなくていいだの、

いちいちウルサイだの、

夫婦は鏡だ。

私はお互い様だと思っているが、夫はいつでも私が悪いと思っている。

これも男性脳?なのか。

 

夫とは他愛もない会話をすることがほぼないのだが、

これは男性脳は寡黙だからのようだ。

子供にすぐウルサイというのもそう。

寡黙でないと集中ができないらしい。

 

男女の脳の違いを書いた本を読むと、

夫の言動は男性という性によるものだと理解できる。

しかし、現実はそうもいかない。

私の修業がまだ足りぬ…。

 

そして夫も、女性脳の特徴を理解できない。

 

またしてもお互い様。

 

でもいつも一方通行な私たち。

 

理解できなくてもそういうメカニズムの脳であることは認めてほしい。

 

ならば私も極められた夫の男性脳を認める努力を。

 

いちいち反応しない、受け流す修行。

 

相手へ良かれと思ったその一言が、余計な一言。

そしてその一言は、実は自分自身への一言なのだろう。

 

目の前の人、その人は自分自身を映し出す。

ならばもう少し自分自身を可愛がってもいいのかも。

 

目の前の人、目の前にいる夫、私自身なのかもしれない。

 

見た目、考え方、声、発言の仕方、すべて私とは異なるのだが、

夫婦を14年しているのだから、やっぱりお互い様だろう。

 

お互いに影響しあってできた夫婦。

 

お互いに理解し難い性差。

 

性差があることは理解して

なんとか前に進もうか。

 

女性脳と男性脳

ぶつかり合ってなんぼと思っておこう。

 

 

 

 

情報に翻弄されていることに気が付いた

わたしの夫に対して

モラハラ夫だと紹介したは、事実で、

巷でいわれるモラハラ夫には違いない。

だが、

モラハラ夫」という言葉が流行っていなかったら、

何夫だったのだろう。

 

情報の受け取り方は、個人でだいぶ違う。

なんなら、自分の都合の良い情報しか受け取らない。

今の自分をうまく慰めてくれる情報しか、目や耳に入らない。

 

そして、その情報が今の自分を取り巻き、蝕んでいく。

 

今の自分に都合の良い情報が頭から離れず、

繰り返し繰り返し、脳裏を反復する。

 

セルフコントロールとでも言おうか。

 

だんだん自分自身を洗脳していき、

受け入れた情報のストーリーのまま、日常を展開していく。

自分で判断、決断したかのように。

 

情報は情報であって、自分自身のことではない。

似たような境遇の情報はあるが、その主人公を自分に変換してはならない。

 

あくまでも他者に起きた出来事で、

自分は自分なのだ。

 

情報操作で人間操作。

本当にできるのだなあと感心すらしてしまう。

 

型にはめて何かを読み解くこと自体、

世の中は安易ではない

 

情報操作による自己洗脳、

これからも気を付けていかねば。

 

情報による翻弄から、さあ脱出しよう!!

わたしはここにいる!!

わたしはわたし!!

 

 

 

知識を売るのはなぜだろう

知識。

本やインターネットや誰かから。

知識。

お金で買うものから伝え聴くものまで。

知識。

ある特有の情報での知識だと、その分野の人に売れるのだろう。

 

人を救いたいための知識って売る必要はあるのだろうか。

 

人を救うための知識。

 

知識ってなんのために持っているのだろう。

 

知識の伝承って、教えを説くのとは違うのだろうか。

 

私は教えを説くことと、知識を伝えることは、同じなんじゃないかと思う。

 

だから、知識を売るという行為が、不思議に思う。

 

知識。

 

教え。

 

惜しみなく流れ出すもの。

 

流れて、分岐しながら流れて、たくさんの人に届く。

 

教え。

 

知識。

 

染み出る、溢れ出る、力の源。

 

知識。

 

減らずに増え続ける。

 

知識。

 

生きる術。

 

 

 

 

180°変えた視点の先には…

つい最近、仕事をする上での視点を180°変えてみた。

 

私が経営者で、夫が従業員という視点に。

(実際は、夫が個人事業主で、私は専従者)

 

視点を変えるきっかけは、夫のいつものトンデモ発言

夫から仕事の説明を受けた時、

「頼んでる人のこと考えて仕事してや」

と言われたのだ。

「ん??」

頼んでる人とは、夫ですよね?私に仕事を頼んでる?

その夫のことを考えて仕事をする?

ようするに、ちゃんとやれ!ってことなんやろうけど、

仕事を頼んでる側が、仕事を手伝ってくれる人のことを考えて指示するのでは?

と思ったのだけれど、ちがった??

それとも、私がお客さん(ここでは夫)とのやりとりで、お客さんのことを考えて仕事をするようにと示唆された?

 

夫の発言にはいつも驚きを隠せない…

矛盾、支離滅裂、多重人格かもしれないような発言…

 

夫自身がいっぱいいっぱいになると毎度のこと。

 

そんなこんなで、じゃあいっそのこと、私が経営者目線で夫を見てみたら?

もしかしたら、歯車がうまく回るかもしれない?

と半信半疑ながらもそんな視点の変更を試みているところである。

なので、経営者のインタビュー記事等を見て、経営者と従業員との関係性や、

仕事場の環境作り等、学んでいる。

日ごろから私が感じていたことを、記事にも当然というように書いてある。

しかし、夫にはその記事に出てくる経営者たちのような振る舞いは期待できない。

本人いわく、出来ないらしいので、ならば私がしたらどうなるだろう?

 

夫と私、共同体であり共依存だとすれば、どちらがどの立場でも成り立ちそうなので、臨機応変さのある私が買って出ればいいんじゃない?

 

相手に期待しすぎていたのかもしれないとも気づき、

なげやりだった自分の態度も改め、

目の前のことを精一杯取り組むことに努力し、

あまり先ばかり見ないようにすることで良い方向へ向かうかもしれないと。

 

視点を変えることができるようになったのは、子供たちが大きくなってきたことも関係するだろう。

 

子供達同様に、これからもっと、私自身も成長していきたい。

自分で変えることができる環境は、自分で良い環境へ整えよう。

視点を変えることで、心は穏やかに、落ち着いた言動ができるようになった。

乗っかるだけは脱出して、舵を切るのは自分。

ぼちぼちやっていこう☆

 

 

 

その誉め言葉って、だれ目線?

誉め言葉にもいろいろと表現の仕方がある。

 

最近でいうと、「脚が長い」「細い」「顔が小さい」という言葉があたかも誉め言葉かのように使われている。

そもそも、これらの言葉が誉め言葉として使う基準はどこから来たの?

日本人と欧米人を見比べて、体形の違いを批評するのは土俵を間違えているのでは?

動物の種類であれ、植物の種類であれ、大きなくくりは同じだとしても、

細分化した種類毎で見れば、それぞれの特徴があるのだ。

人種だってそうである。

 

昨今の軽々しく使われている誉め言葉は、巷に流されていた情報に思い込まされていただけにすぎないと思う。

 

それから装いにも関係する。

 

和服と洋服の違いだ。

 

日本人は着物がよく似合う。欧米人が着物を着るとアンバランスになる。

欧米人は洋服が着こなせる。欧米人の似合う洋服は日本人には似合わない。

 

こんな風に体形に合った装いがあるのだ。

 

だれ目線で物事を見るかで、選ぶ言葉は変わってくる。

日本人が日本人と欧米人を比べて批評したとき、大体が日本人を皮肉る発言になるように思う。私はそこに疑問を持ってしまう。

どうして欧米人優勢な見方なのか。

ここが情報操作による価値観のゆがみだろう。

 

和服を着た日本人と欧米人を比べたら、批評はどうなるだろう。

 

皮肉る言葉と誉め言葉、どちらも紙一重

 

皮肉る言葉には自分自身のコンプレックスを

誉め言葉には自分自身の理想を

発した人の想いを載せて言葉が飛び出てくる。

 

公の場に出ておられる有名な方々は、ウェブ上で、この発言者たちの身代わりになっているところがある。

ウェブ上の発言者たちの自己投影は、限度がない。

 

言葉には言霊がついてくる。

皮肉が得意な発言者には、自身の発信した言葉を俯瞰して読んでほしい。

 

だれ目線で言ってますか?その言葉。

それから、公言する必要はありますか?

 

言葉遣いは、その人を現す。

だから、もっと慎重に言葉選びをしていこう。