こまにまにこ’s blog

夫と子どもをみていて感じること→そして自分の見直し+必要最低限な暮らしを目指して。

生き死にのはざまの気持ちと命と想像

最近目にする悲しい社会の出来事…

大人が子どもの自死を手助けする…

 

この大人側はゲーム感覚なのだろうか

 

生身の人間とのコミュニケーション不足

2次元世界と現実社会との混同

 

人助けという意味をはき違えている

 

人助けって命あってのことだのに

 

人をひとり産みだすのにどれほどの時間と体力と気力をかけているのか

想像してみてほしい

 

そしてどれほどの人がその生まれてくるひとりの人間とかかわっているのか

想像してみてほしい

 

独りぼっちで生まれることなんて出来ない

たくさんの人たちと、たくさんの時間と、色んなかかわりがあってこそ

生れてくる命

 

身動きできるようになって、自分で物事を考えられるようになって、

そしたら、自分ひとりで生きているように思えてくる

でも今ここに、生きて、いることができて、死を考えることができるのは

どうしてか

今一度、考えて、感じて、経過した時間を思い巡らせてみてほしい

 

今まで関わった人の中で、少しでも良い印象でいる人はいないか

悪い印象の方が記憶には強く残っているけど

その中でも、これは良かったとほんの少しでも感じたことを思い出してみてほしい

そしてまだ見ぬこの先に、今までよりもっと良いことが起きると

想像してみてほしい

 

誰かを何かを助けた経験はないだろうか

ささいなことでも助けた記憶があるなら

あなたが生きているからこそできたことなのだよ

 

自死するために誰かに助けを求める

それはまだ生きたいとどこかで願っているのだよ

死にたいと思うのは、懸命に生きてきたからだよ

がんばりすぎたのだよ

死にたいと思う前提で、生きていればいいのだよ

死にたいと思うのは、現実逃避が必要であることを教えてくれているのだよ

死にたいという言葉は逃げたいという言葉として使っているのだよ

死にたい=死んだ とは違うのだよ

死にたい=生きたい と置き換えることができるのだよ

 

私が死にたいと思っても生き続けている理由は、

自分を生み育ててくれた家族がいるから

そして、妊娠・出産・育児を体験したから

人をひとり産み出し育てるのは、多大なる苦悩と自身の成長と

子育ちによる成長の喜び

子どもを大人になるまで見届ける

これらのことが私を今も生かし続けている

 

それから、若くしてこの世を去った友人が知りえないこの世界を

私は今も見ることができ、これからも変化する時代を見届けることができる

 

誰もが体験することのできない死

 

ならば、老いる日を体験するのもいいなと

 

体験したことのないことを体験するために死を選ぶのなら

残念だが、死は体験できない

 

未知の世界

生き続けることで体験できる世界

 

経済的自由を手に入れてから

死について、もう一度考えてみるのもいいと思う

 

枠が決められている子ども時代をどう生き延びるか

ただ生きている

それでいいと思う

 

ここから逃げたい と思うときは、

ひたすら寝る 脳を鈍くさせる

ひたすら泣く 身体から不要なものを出す

ひたすら書く こころの整理になる

 

死にたい 逃げたい 生きたい

混乱しながら、みんな、ただ生きているのだよ