死。
生きていれば必ず訪れるもの。
いつその死が来るのか。
自然に任せたり、自分で確定させたり、
カウントダウンは本人だけが知りえる。
そのカウントダウンを他者と共有することは必要なのだろうか。
命が本人だけのものではないのは確かだ。
ならばカウントダウンの共有は必要かもしれない。
カウントダウンの共有の前に、心の内を共有することが先決なのではないか。
言ってはいけないこと。
”死にたい”と。
この常識を認識しているがために、”死にたい”と公言できないことが更に拍車をかける。
”自死”。
”生きたい”とは公言できても、反対の言葉は公言できない。
その思い込みをとっぱらってしまいたい。
”死にたい”と思ったことのある人は、この世の中にたくさんいるだろう。
一見負の感情のように思えるが、この気持ちを他者と共有することで、プラスに思えることも出てくるのではないだろうか。
大昔のように生きることが精いっぱいな時代から、生きることができるのは当たり前という前提の日本の現代は、また別の問題をかかえている。
負の感情を抱くからこそ、希望を持てたとき、とても気持ちが良くなる。
表裏一体の生と死。
どちらかに大きく傾くときもある。
真ん中のときもある。
そしてなにより、独りでは生きていけない地球上の生物。
独りではない。
一人の人間。
私の命は、地球の命。
生きている。
生かしてもらっている。
この世の生物は、みんなで生きている。
いつ死ぬか。
私は年を重ねるごとに、死ぬ時を遅らせている。
日々、考えが変化していくからだ。
身近な人が自死すると、私たちは助けられなかったことにずっと苦しめられる。
きっと、自死を選択した本人と同じくらいに…。
それならお互いが生きている間に、苦悩していることを共有したい。
共有させてほしい。
一緒に考えたい。
楽しいことを堂々と語れるように、苦しんでいることも堂々と語り合いたい。
どんな感情も堂々と言い合える仲間は必ず存在すると信じて、吐き出そう。